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2022.11.23 ― 金沢アートグミ2022年度企画公募採択事業 N₂ Tab.11 solitude étude の情報をリリースしました。
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2021.10.23 ― 杉本奈月が 演劇人コンクール2021 にて奨励賞を受賞しました。
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2020.07.01 ― 杉本奈月と秋山真梨子のカンパニーN₂(エヌツー)は大阪と東京そして第二の拠点である京都で演劇を制作してきましたが、2020年より堀越千晶と小原藍が コアメンバー としてかかわっていきます。
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浴室にいる自分の姿を思い浮かべる。バスタブに身を沈めたその体は他の誰のものでもなく、天にも昇る心地とまでは言わないが、それなりの安らぎを感じさせてくれる。人々に欲情されることのない空間は一つのセーフスペースであるとも考えられ、その一方でわたしは波間を漂う水死体のようでもある。誰の目にも映らない。誰もあなたを見ていない。そうして、はじめてわたしたちは一人になれる。そう、信じられる場所を求めている。
(光はあなたたちへと降り注ぐ。彼の風俗街で戯れた夜も、神に祈らずじまいとなった朝も。)
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2022年12月1日(木) - 12月15日(木) 金沢アートグミ
11:00 / 12:30 / 14:00 / 15:30 / 17:00
* 全65公演
* 毎週水曜日は休演
* 定員は各回1名あるいは1組まで
* 開場は開演時刻の5分前, 上演時間は30分以内
* 事前予約制, 残席がある場合に限り当日の飛び入りも可能です
〈STORES〉https://azote.stores.jp/
主催|認定NPO法人金沢アートグミ
企画|N₂
横浜港にダイヤモンド・プリンセスが停泊していた 国際舞台芸術ミーティング in 横浜 TPAM 2020 Fringe の初演では一人の役者が「境界」をなぞりながら観(光)客と横浜の街を行き、現地へ来場しない観客にむけてリアルタイムで映像をキャストしました。THEATRE E9 Air では、COVID-19の影響下にあるわたしたちの現在地を記録するためのプロジェクトとしてドキュメンテーション(記録行為)に主眼をおき写真へとフォーカスをうつします。
また、平時に過ごしている日々の感覚とちがっていた点をおなじ時間を過ごした他の方々とシェアさせていただくミーティングをオンラインはzoom、オフラインはTHEATRE E9 KYOTOへ来場いただきロビーにて行います。全シーズンがおわりましたらフォトブックを制作しご自宅へ郵送いたします。
劇場文化が死と生の境界にある今、あるいは一、二年ほど先まで。わたしたちは「劇的なもの / 劇であること」の境界をなぞり、演劇と劇場それぞれの内 / 外をも出入りしつづけるでしょう。死ととなりあわせの街で舞台上のみに生起するすべての物語から降りて、それでもなお観客という隣人とともに在るための未来を見つけるべくボーダレスな演劇の場を創造します。どうぞご注目ください。
去る2020年6日21日、劇団『劇団ごっこ』所属の俳優 堀越千晶ならびに睡眠時間 代表の小原藍がコアメンバーとなりました。
また、それにともないN₂(エヌツー)は十年来のテーマである舞台芸術を通したケアのあり方をコロナ禍においても考えていくばかりでなく、主に女性アーティストと演劇界に足を踏み入れて間もない後進へのセクシュアル・ハラスメントおよびセカンドレイプ行為を同業者までもがゆるしてきた前時代的な風潮に立ちむかうため、情報を世へ出さずに性被害を知らせていただける場をつくります。
本来は司法や行政に働きかけるべきですが、人によってはそのラインに立つための資金がなかったり、立場への影響があったり、あるいは病気になってしまったがゆえに動けないといった例がまだまだ存在していると感じています。場合によっては然るべき場所へつなぐためのお手伝いもさせていただきますが、わたしたちはその方の身に起こった被害そのものをただ知るというだけで、それを公言することもしません。
でも、わたしたちは慥かに知っています。
彼らの後ろ暗い悪事が明るみに出ていなくとも、その情報がわたしたちの耳には入っているという環境づくりを目ざします。性被害にあわれた方は、先ず内容をメールでお知らせいただき、外で会って話したいなどのご希望があればそちらもあわせてお伝えいただければと思います。
わたしたちのようなカンパニーのあり方は前例がなく、被害にあわれた一人一人の溜飲をさげるには至らないかもしれません。それでも、性被害にあったために辛い日々を過ごされている方、幸い被害にはあっていないものの違和感があるという方が声をあげられる場の一つとしてわたしたちもいるのだと覚えておいていただけますと幸いです。
Chiaki 俳優の堀越千晶です。三重県在住で、会社勤めをしています。自身が所属する津市を拠点とする劇団『劇団ごっこ』では年に一本、他にも客演やご縁をいただいた公演に年に一、二本ほど出演するというペースで演劇をしています。今回、声がかかったときにもっともいいなと感じたのは、N₂(エヌツー)では上演でない方向へ演劇を深めていくための場もあるという点です。目的地のない創作プロセスにおいて、様々なルートに愉しみを見出す贅沢な時間を過ごしたいです。また、生活と演劇を行き来する中で日々のどこに演劇が存在すると生活が豊かになるのだろう…と考えるようになりました。大きな劇場で舞台に立ち、客席へむけて語りかけるばかりが演劇ではない。エヌツーではそういった話ができました。コアメンバーとしてかかわりながら、わたしは一つでも多くその道すじを示すことを目ざしたいです。面白いものに出会うと屈託なく笑う杉本さんと、ノリがよく一つの物事を広げてゆける小原さんとともに旅をはじめたいと思います。みなさま、どうぞお見知りおきくださいませ。
Ai はじめまして。こんにちは、こんばんは。小原藍です。わたしは睡眠時間を主宰しながら劇作と舞台演出をしています。でも、現時点では「演劇」だけでなく別の表現方法にも眼ざしをむけてみたいと感じています。たとえば、映像とパフォーミングアーツのあいだには、その境界線が溶けあう領域もまだまだあるのではないでしょうか…。N₂(エヌツー)の創作現場に身をおくようになったのは存在を知ってからずいぶんと後のことでしたが、クリエイションメンバー全員に意見が求められる場はスリリングでわたしにとって居心地のよい場所でした。一人一人、信じているものが異なる中で色々な立場から他者へ働きかけ、己の観点を前むきに疑いそこからまた自身のあたらしい一面を目にする。エヌツーは「演劇でなければならない」という意志と、それを重心にしながらもそのラインは軽やかに飛び越えていきたいという欲望が化学反応を起こしてきた場であると認識しています。一対一あるいはカンパニー同士、それぞれの中間で彼女たちとともに幸福な融和のあり方を見つけたいと思います。
杉本奈月 Natsuki Sugimoto | 作家。1991年、山口県生まれ。大阪府出身、京都府在住。京都薬科大学 薬学部薬学科 細胞生物学分野教室 藤室研究室 中退。大阪現代舞台芸術協会DIVE、京都舞台芸術協会 所属。株式会社エス企画 勤務。第15回AAF戯曲賞最終候補。N₂(エヌツー)代表。
秋山真梨子 Mariko Akiyama | 舞台美術。1991年、東京都生まれ。東京都出身、埼玉県在住。大阪市立大学 生活科学部居住環境学科 卒業、大阪市立大學交響楽團にてコンサートミストレスを務める。千葉大学大学院 工学研究科 卒業。現在は東宝舞台株式会社(帝国劇場 担当)に勤める。N₂(エヌツー)カンパニーメンバー。
堀越千晶 Chiaki Horikoshi | 俳優。1992年生まれ。三重県出身、在住。三重大学 人文学部 卒業。2011年より、三重県津市を拠点に劇団の公演と並行して「トリプル3 演劇ワリカンネットワーク」、「ミエ・ユース演劇ラボ」、「MIENEXTAGE」、「YONBUN DRAMA COLLECTIONー四日市演劇化計画」にかかわり、劇団ジャブジャブサーキット、南河内万歳一座、烏丸ストロークロック、天野天街、FUKAIPRODUCE羽衣の公演に出演。ほか、劇団太陽族 三都市再演ツアー『ここからの遠い国』リーディング企画(2014)出演、Théâtre de Belleville 春シーズンプログラム『春の枯葉』出演など。劇団『劇団ごっこ』所属。N₂(エヌツー)コアメンバー。
小原藍 Ai Kohara | 劇作家、演出家、俳優。1998年生まれ。大阪府出身、在住。京都造形芸術大学 映画学科 俳優コース 在籍。京都学生演劇祭2019ならびに第五回全国学生演劇祭で観客賞・審査員賞・京都学生演劇祭賞(三冠)受賞。ほか、笑の内閣、ドキドキぼーいず(2017)演出助手、京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催事業『madogiwa』(マームとジプシー 藤田貴大 構成・演出)出演など。睡眠時間 代表。N₂(エヌツー)コアメンバー。
かつてネクロポリスは居住地域から遠くはなれた場所に建てられていましたが、一方でディジタル信号、液晶、ユーザーアイコン……そのむこうにある存在の生き死にを気にとめない現代人のあり方、自他の境界が失われるような感覚は近代の産物であるといえます。Tab.10 街の死:necropolises. は一人の役者が劇場の外であらわとなっている「境界」をなぞりながら市内をめぐって行く演劇です。現地へ来場しない観客にむけてリアルタイムで映像をキャストします。
2020年2月10日 神奈川県横浜市中区海岸通1-1 横浜税関遺構
人々の行きつくところが劇場だからといって今、そして未来も舞台は街であり、もうそこからしかせりふが生まれえない時代なのだとすれば、わたしは悲しい。それでも、自身の先入観でことばにしなければならないこと、ものがたりにしたものの死なれた他者の出来事を――目のあたりにしては、どこかで憶えのあるめまいを覚えてしまう。だから、いつだって盲を演じ「あなたの書いたものは読めない」というのを忘れないようにしながら、日々を生きている。ただ光が見えるだけで、ほんとうは暗いのに明るくしていなければならない。ここに、そういった街をつくりたくはない。
舞台には「踏めない場所」がある。暗いところから、光。すべてが見られている。イメージが浮かぶ。そこから零れたり、そこへ座ったり、そこで溜まっていく水の。ある空間を見た。泡のように見えたし、そういう風につくってあるそう。見られていること。観客が眼ざすもの。音、劇場のコンクリート。ここに、ことばを乗せられたら。台詞に乗せられず、ことばを乗せられたなら。闇との境目、照明。
雨が降らない場所にいたい。でも、水の流れている空間でありたい。止めどなく、
(劇場の外から漏れる昼夜の光と場内で幽かに流れている環境⾳、そして一人の俳優によるモノローグ。)
日々、わたしたちのまわりでおこなわれている公演は、今ここがどこであるのかを他者へ伝えるとともに、本来そこがどこであったのかを忘れさせる行為であるともいえます。その一方、物語を通過し「そういえば、あそこは彼 / 彼女のいた場所だった」と気づく道ゆき、そして死んだものへの祈りはいつだって劇場と地つづきです。住人たちの息づかいと熱、冷たささえも失われた(それでも昼があり夜がある)空間で自生する一人語りによる演劇のことばは「もう、ここに帰ってこない人がいる」という今への愁いとして示されます。
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2021.10.23 ― 杉本奈月が 演劇人コンクール2021 にて奨励賞を受賞しました。
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2020.07.01 ― 杉本奈月と秋山真梨子のカンパニーN₂(エヌツー)は大阪と東京そして第二の拠点である京都で演劇を制作してきましたが、2020年より堀越千晶と小原藍が コアメンバー としてかかわっていきます。
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N₂ Tab.11 solitude étude 金沢アートグミ2022年度企画公募 採択事業
演 劇 ただ一人で「肯うべき孤独とは何か」へフォーカスしてみる、半時間の無人劇。
演 劇 ただ一人で「肯うべき孤独とは何か」へフォーカスしてみる、半時間の無人劇。
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浴室にいる自分の姿を思い浮かべる。バスタブに身を沈めたその体は他の誰のものでもなく、天にも昇る心地とまでは言わないが、それなりの安らぎを感じさせてくれる。人々に欲情されることのない空間は一つのセーフスペースであるとも考えられ、その一方でわたしは波間を漂う水死体のようでもある。誰の目にも映らない。誰もあなたを見ていない。そうして、はじめてわたしたちは一人になれる。そう、信じられる場所を求めている。
(光はあなたたちへと降り注ぐ。彼の風俗街で戯れた夜も、神に祈らずじまいとなった朝も。)
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2022年12月1日(木) - 12月15日(木) 金沢アートグミ
11:00 / 12:30 / 14:00 / 15:30 / 17:00
* 全65公演
* 毎週水曜日は休演
* 定員は各回1名あるいは1組まで
* 開場は開演時刻の5分前, 上演時間は30分以内
* 事前予約制, 残席がある場合に限り当日の飛び入りも可能です
〈STORES〉https://azote.stores.jp/
主催|認定NPO法人金沢アートグミ
企画|N₂
横浜港にダイヤモンド・プリンセスが停泊していた 国際舞台芸術ミーティング in 横浜 TPAM 2020 Fringe の初演では一人の役者が「境界」をなぞりながら観(光)客と横浜の街を行き、現地へ来場しない観客にむけてリアルタイムで映像をキャストしました。THEATRE E9 Air では、COVID-19の影響下にあるわたしたちの現在地を記録するためのプロジェクトとしてドキュメンテーション(記録行為)に主眼をおき写真へとフォーカスをうつします。
また、平時に過ごしている日々の感覚とちがっていた点をおなじ時間を過ごした他の方々とシェアさせていただくミーティングをオンラインはzoom、オフラインはTHEATRE E9 KYOTOへ来場いただきロビーにて行います。全シーズンがおわりましたらフォトブックを制作しご自宅へ郵送いたします。
劇場文化が死と生の境界にある今、あるいは一、二年ほど先まで。わたしたちは「劇的なもの / 劇であること」の境界をなぞり、演劇と劇場それぞれの内 / 外をも出入りしつづけるでしょう。死ととなりあわせの街で舞台上のみに生起するすべての物語から降りて、それでもなお観客という隣人とともに在るための未来を見つけるべくボーダレスな演劇の場を創造します。どうぞご注目ください。
去る2020年6日21日、劇団『劇団ごっこ』所属の俳優 堀越千晶ならびに睡眠時間 代表の小原藍がコアメンバーとなりました。
また、それにともないN₂(エヌツー)は十年来のテーマである舞台芸術を通したケアのあり方をコロナ禍においても考えていくばかりでなく、主に女性アーティストと演劇界に足を踏み入れて間もない後進へのセクシュアル・ハラスメントおよびセカンドレイプ行為を同業者までもがゆるしてきた前時代的な風潮に立ちむかうため、情報を世へ出さずに性被害を知らせていただける場をつくります。
本来は司法や行政に働きかけるべきですが、人によってはそのラインに立つための資金がなかったり、立場への影響があったり、あるいは病気になってしまったがゆえに動けないといった例がまだまだ存在していると感じています。場合によっては然るべき場所へつなぐためのお手伝いもさせていただきますが、わたしたちはその方の身に起こった被害そのものをただ知るというだけで、それを公言することもしません。
でも、わたしたちは慥かに知っています。
彼らの後ろ暗い悪事が明るみに出ていなくとも、その情報がわたしたちの耳には入っているという環境づくりを目ざします。性被害にあわれた方は、先ず内容をメールでお知らせいただき、外で会って話したいなどのご希望があればそちらもあわせてお伝えいただければと思います。
わたしたちのようなカンパニーのあり方は前例がなく、被害にあわれた一人一人の溜飲をさげるには至らないかもしれません。それでも、性被害にあったために辛い日々を過ごされている方、幸い被害にはあっていないものの違和感があるという方が声をあげられる場の一つとしてわたしたちもいるのだと覚えておいていただけますと幸いです。
Chiaki 俳優の堀越千晶です。三重県在住で、会社勤めをしています。自身が所属する津市を拠点とする劇団『劇団ごっこ』では年に一本、他にも客演やご縁をいただいた公演に年に一、二本ほど出演するというペースで演劇をしています。今回、声がかかったときにもっともいいなと感じたのは、N₂(エヌツー)では上演でない方向へ演劇を深めていくための場もあるという点です。目的地のない創作プロセスにおいて、様々なルートに愉しみを見出す贅沢な時間を過ごしたいです。また、生活と演劇を行き来する中で日々のどこに演劇が存在すると生活が豊かになるのだろう…と考えるようになりました。大きな劇場で舞台に立ち、客席へむけて語りかけるばかりが演劇ではない。エヌツーではそういった話ができました。コアメンバーとしてかかわりながら、わたしは一つでも多くその道すじを示すことを目ざしたいです。面白いものに出会うと屈託なく笑う杉本さんと、ノリがよく一つの物事を広げてゆける小原さんとともに旅をはじめたいと思います。みなさま、どうぞお見知りおきくださいませ。
Ai はじめまして。こんにちは、こんばんは。小原藍です。わたしは睡眠時間を主宰しながら劇作と舞台演出をしています。でも、現時点では「演劇」だけでなく別の表現方法にも眼ざしをむけてみたいと感じています。たとえば、映像とパフォーミングアーツのあいだには、その境界線が溶けあう領域もまだまだあるのではないでしょうか…。N₂(エヌツー)の創作現場に身をおくようになったのは存在を知ってからずいぶんと後のことでしたが、クリエイションメンバー全員に意見が求められる場はスリリングでわたしにとって居心地のよい場所でした。一人一人、信じているものが異なる中で色々な立場から他者へ働きかけ、己の観点を前むきに疑いそこからまた自身のあたらしい一面を目にする。エヌツーは「演劇でなければならない」という意志と、それを重心にしながらもそのラインは軽やかに飛び越えていきたいという欲望が化学反応を起こしてきた場であると認識しています。一対一あるいはカンパニー同士、それぞれの中間で彼女たちとともに幸福な融和のあり方を見つけたいと思います。
杉本奈月 Natsuki Sugimoto | 作家。1991年、山口県生まれ。大阪府出身、京都府在住。京都薬科大学 薬学部薬学科 細胞生物学分野教室 藤室研究室 中退。大阪現代舞台芸術協会DIVE、京都舞台芸術協会 所属。株式会社エス企画 勤務。第15回AAF戯曲賞最終候補。N₂(エヌツー)代表。
秋山真梨子 Mariko Akiyama | 舞台美術。1991年、東京都生まれ。東京都出身、埼玉県在住。大阪市立大学 生活科学部居住環境学科 卒業、大阪市立大學交響楽團にてコンサートミストレスを務める。千葉大学大学院 工学研究科 卒業。現在は東宝舞台株式会社(帝国劇場 担当)に勤める。N₂(エヌツー)カンパニーメンバー。
堀越千晶 Chiaki Horikoshi | 俳優。1992年生まれ。三重県出身、在住。三重大学 人文学部 卒業。2011年より、三重県津市を拠点に劇団の公演と並行して「トリプル3 演劇ワリカンネットワーク」、「ミエ・ユース演劇ラボ」、「MIENEXTAGE」、「YONBUN DRAMA COLLECTIONー四日市演劇化計画」にかかわり、劇団ジャブジャブサーキット、南河内万歳一座、烏丸ストロークロック、天野天街、FUKAIPRODUCE羽衣の公演に出演。ほか、劇団太陽族 三都市再演ツアー『ここからの遠い国』リーディング企画(2014)出演、Théâtre de Belleville 春シーズンプログラム『春の枯葉』出演など。劇団『劇団ごっこ』所属。N₂(エヌツー)コアメンバー。
小原藍 Ai Kohara | 劇作家、演出家、俳優。1998年生まれ。大阪府出身、在住。京都造形芸術大学 映画学科 俳優コース 在籍。京都学生演劇祭2019ならびに第五回全国学生演劇祭で観客賞・審査員賞・京都学生演劇祭賞(三冠)受賞。ほか、笑の内閣、ドキドキぼーいず(2017)演出助手、京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催事業『madogiwa』(マームとジプシー 藤田貴大 構成・演出)出演など。睡眠時間 代表。N₂(エヌツー)コアメンバー。
かつてネクロポリスは居住地域から遠くはなれた場所に建てられていましたが、一方でディジタル信号、液晶、ユーザーアイコン……そのむこうにある存在の生き死にを気にとめない現代人のあり方、自他の境界が失われるような感覚は近代の産物であるといえます。Tab.10 街の死:necropolises. は一人の役者が劇場の外であらわとなっている「境界」をなぞりながら市内をめぐって行く演劇です。現地へ来場しない観客にむけてリアルタイムで映像をキャストします。
2020年2月10日 神奈川県横浜市中区海岸通1-1 横浜税関遺構
人々の行きつくところが劇場だからといって今、そして未来も舞台は街であり、もうそこからしかせりふが生まれえない時代なのだとすれば、わたしは悲しい。それでも、自身の先入観でことばにしなければならないこと、ものがたりにしたものの死なれた他者の出来事を――目のあたりにしては、どこかで憶えのあるめまいを覚えてしまう。だから、いつだって盲を演じ「あなたの書いたものは読めない」というのを忘れないようにしながら、日々を生きている。ただ光が見えるだけで、ほんとうは暗いのに明るくしていなければならない。ここに、そういった街をつくりたくはない。
舞台には「踏めない場所」がある。暗いところから、光。すべてが見られている。イメージが浮かぶ。そこから零れたり、そこへ座ったり、そこで溜まっていく水の。ある空間を見た。泡のように見えたし、そういう風につくってあるそう。見られていること。観客が眼ざすもの。音、劇場のコンクリート。ここに、ことばを乗せられたら。台詞に乗せられず、ことばを乗せられたなら。闇との境目、照明。
*
雨が降らない場所にいたい。でも、水の流れている空間でありたい。止めどなく、
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(劇場の外から漏れる昼夜の光と場内で幽かに流れている環境⾳、そして一人の俳優によるモノローグ。)
日々、わたしたちのまわりでおこなわれている公演は、今ここがどこであるのかを他者へ伝えるとともに、本来そこがどこであったのかを忘れさせる行為であるともいえます。その一方、物語を通過し「そういえば、あそこは彼 / 彼女のいた場所だった」と気づく道ゆき、そして死んだものへの祈りはいつだって劇場と地つづきです。住人たちの息づかいと熱、冷たささえも失われた(それでも昼があり夜がある)空間で自生する一人語りによる演劇のことばは「もう、ここに帰ってこない人がいる」という今への愁いとして示されます。
REVIEW
この公演は10ステージ行われたということだが、場所柄、昼公演と夜公演とでは、かなり見る側の意識が違っていたのではないかと思う。周知のように、名村造船所跡地のブラックチェンバーは、木津川河口の元工場地帯にある。最寄り駅からも、けっして近いとはいえない距離なので、日中でも、ある種の非日常感とともに、いまは使われなくなった広大な敷地へと向かうことになる。わたしが見た公演は夜だった。公演後のトークゲストも依頼されていたので、打ち合わせのために、受付開始時間より早めに会場入りしなければならなかったのだが、すでにとっぷり暮れた人気のほとんどない暗い冬の街路をひとりで歩いていると、自分がいま、「世界の中心」とは違う場所に近づいていることが、徐々に実感されてくる気がした。同じ名村造船所跡地で、以前に見た野外劇――やなぎみわ『日輪の翼』――では、客席がずっと大規模だったこともあるが、会場全体が一種の祝祭空間としての雰囲気に包まれていたのとは対照的な静けさである。
この作品は、前年度に上演された『桜紙』をベースに作られたというが、おおさか創造千島財団のスペース助成採択事業としての側面ももつ。「劇場空間にあて書きする」ことをコンセプトのひとつに掲げている杉本は、あるいはそうした「静けさ」をも、作品の一部に織り込もうとしていたのかもしれない。
2 一度でも足を運んだことがある人なら分かる通り、造船所跡地の入り口すぐの建物の1・2Fにある「ブラックチェンバー」は、縦18m、幅10m、高さ6mほどの、大きな黒いハコであり、そのなかに設置された観客席からみた正面には、このスペースの特徴である「非常口」、「螺旋階段」、「二階(両サイドにギャラリー)」が見える。舞台装置のようなものは、ほぼ置かず、わずかに数脚のイスと、放置されたドライフラワーの束、むき出しのスピーカーが散在するくらいである。作品全体を見終わった後に感じたのは、本作で杉本は、このスペースを、いわば大きな「室内」に見立てていた、ということだった。
作品は、二階部分からゆっくりと始まる。客席上手後方の二階ギャラリーから、ゆっくりと俳優たちが歩いてくる。出演者は、女優3人――澤井里依、高道屋沙姫、電電虫子による「室内劇」である。3人は、自分の役者名を観客に示しながら、時には対話を、時にはモノローグを、約60分にわたって繰り広げる。いつもの杉本作品と同じで、明確なストーリーなどはなく、複数の場面が緩やかにつながっていく形で、舞台の時間は進行していくのだが、冒頭からしばらくのあいだは、3人はほとんど言葉を発することなく、1階と2階の薄暗いアクティングエリアのなかで、それぞれのたたずまいが、深くて濃密な「沈黙」だけを描き出していく様が、なににもまして見応えがあり、見事だった。
3 わたしがN₂を見るのは、今回で3回目になるが、シリーズ第3作『雲路と氷床/赤裸々』では、二人の女性が出演していた。杉本は、毎回、自分がすべてのテキストを書き下ろすのではなく、俳優にテーマを出し、それにもとづいて俳優が書いたテキスト(日記や手紙のような文体)を、パフォーマンススクリプトに用いる方法をとる。その点は、前回みることのできた作品と同じなのだが、大きく印象が違ったのは、本作の出演者3人が、小劇場の俳優として、一定のキャリアを積んできているように見えることだった。『雲路と氷床/赤裸々』の場合、出演者に演劇的キャリアの浅い2人を選んでいたせいで、よい意味でも悪い意味でも「生(なま)」な存在感が基調をなしていたと思う。その点、本作の出演者3名は、ふつうの意味での「俳優としての強度」を、積極的に作品に活用していく場面も目に付いた。
たとえば、深い沈黙が、劇的時間の全体を貫いていたとはいえ、時には彼女たちは、かなり饒舌に、声高に言葉をぶつけていく場面もある。私が一番印象に残ったのは、作品の中盤で、高道屋沙姫が、1階アクティングエリアの螺旋階段の奥、すなわち、見え方としては、舞台の最も客席から遠い「片隅」のような場所にこもって、背中を向けながら、たたきつけるように、何度も同じ言葉を繰り返していくモノローグである。多義性をはらんだ独白なので、後日、演出家から送ってもらった上演台本から要約せずに引用すると、以下のようなものだ。
Saki (沈黙)あの……いえ、だったんですね。そこは。扉があって……鉄の、手あかがついている。入り口に立っていて、わたし一人で……。あったはずなんだけど、どこにいったんでしょうね。リップを出そうとしていて、ベビーピンクの。あ、口紅じゃないんです。悪くないですよ。だって、わかんないでしょ。男の人って。紫がかった色で……まあ、それは書いてあるから良いんですけど。
本番ではこの台詞が、たしか何度か反復されて発語されていたのだと思う。文字言語としてじっくり読めば、上記の引用のなかに頻出する「・・・」や冒頭の「沈黙」などの背後に、明示されていない出来事を想像することも可能であろう。ただ、実際に俳優・高道屋から発せられた言葉は、観客の耳に伝わってくる圧倒的な音声言語としての強さをもった語りであって、特に何度か反復される「リップ」という単語の響きは、非常に印象深いものだった。どちらかというとドキュメンタリー・アート的な色彩の強い杉本作品に、そのようなふつうの意味での演劇的力を目にした記憶はあまりなかったので、余計にそう感じられたのだろう。
4 ところで、冒頭に紹介したように、この作品は、「女性」がテーマとなっている。《ある島の造船所、その跡地にて。寒空のもと「わたしも」と声をあげられなかった女たちが息を潜めている。海のむこうから黒い船もあらわれなければ、母国へ帰ろうとする水夫もいなくなった今。ここに埋葬されているのは、男たちが彼女らを踏み躙ってきた日々である》――杉本自身は、この作品の「あらすじ」をこのように書き記している。さきほどわたしは、演出家の劇場空間に対する視線を、「大きな「室内」」という言葉で表現したが、室内的にも、屋外的にも演出可能なブラックチェンバーを、室内的に見せていたのは、やはり俳優たちの語る言葉が、総体的に「内」を強く意識させるものだったからだろう。タイトルにある「退嬰」という言葉と共鳴し合いながら、それらは、どこにもやり場のない「内」を想起させるものだった。同時にまた、(昼公演の場合には事情は異なるが)、深い闇のなかの暗くて大きな「室内」で、沈黙のあいまに発せられていく言葉の姿は、文字通り、「世界の片隅」といったイメージを喚起するのに充分なテキスチュアをそなえていた。そうした意味では、作り手の意図は、ある程度成功していたと言えるのではないだろうか。
もっとも、この作品全体は、フェミニズム的な政治性を前面に出すメッセージ劇のようなものではない。何度もいうように、全体のトーン支配していたのは、あくまでも深い「沈黙」であり、語られる言葉以上に、語ることのできない言葉のほうが、作品の方向性を決めていたのであって、告発的なムードではない。杉本は、自身の作品の方法について、《物語の書き手ではなく、語りの聞き手として他者とかかわっていく作劇》というふうに説明しているが、本作もまた、作家が人為的になにかを生み出そうとするのではなく、なにかが滲み出てくるのを待つ、という「聞き手」的なスタンスが濃厚であったことは間違いない。それ自体は、今後も彼女が追求すべき、大事な方法だろう。
5 しかしながら、その上でわたしは、本作が5作目となるシリーズ「書きことばと話し言葉の物性を表在化する試み」に関して、舞台芸術的な方法を、もっと踏み込んで捉えていくべきではないかとも感じた。このシリーズを通じて問われている根源的な問い、すなわち、なぜ「物性の表在化」なのか。いいかえれば、なぜ、モノなのか。言葉のモノ性とはなんなのか。それらを白日の下に召喚することで、なにを見、なにを聞き取ろうとするのか。
わたしがそう感じるのは、杉本の「言葉」や「身体」に関する「モノ性」というコンセプトに、いまなお、あいまいさが残っているからである。たとえば、「言葉の物質性」といっても、さきにあげたように、俳優の演技力を通して得られる強度を徹底することで到達する「物質性」と、その逆に、そうした従来の演劇から思い切り遠ざかった地点に発見する「物質性」とでは、おのずと異なってくる。本作『退嬰色の桜』においても、その両者が、やや唐突に混在し、そのことで、それぞれのよさを相殺しかねない様子も見受けられた。
わたしは、N₂の作品を見るとき、いつも「写真」というジャンルを思い出す。というのも、写真家の中平卓馬(1938-2015)に『植物図鑑』というシリーズがあるからだ。木々や花を、ありのままに映し出そうとするその写真群は、それだけのものでしかないのに、強くわたしたちの心をひきつけ、激しく揺さぶってくる。日本写真史の、もはや伝説的な存在となった雑誌『プロヴォーク』の同人のひとりとして、「アレ・ブレ・ボケ」という独特のスタイルで鮮烈にデビューした彼は、そうした「スタイル」自体を徹底的に自己批判することを通じて、『植物図鑑』という、まったく別の次元の「美(=反・美)」に到達する。「アレ・ブレ・ボケ」を捨て、一時期写真を取らずに次々に映像批評を発表していく中平を、「詩を喪失している」と批判した一読者の投稿に対して、彼は次のような反論を書き記している(少し長いのですが、以下、3箇所ほど引用します)。
・・・一体われわれが〈詩〉と呼び慣らわしているものとは何なのか? それはひょっとして、世界と私をつなぐ〈イメージ〉と同義なのではないだろうか? この〈イメージ〉という言葉ぐらい幅広くしかも実にあいまいな形で使われる言葉もすくないと言えよう。だが、投稿者が〈詩〉と呼ぶもの、それは、私が世界はかくかくである、世界はこうあらねばならないと予め思い込み、そうきめこんでいる像のことなのではないだろうか。この、私によってア・プリオリに捕獲された〈イメージ〉は具体的には私による世界の潤色、情緒化となってあらわれるものではないだろうか。つまり世界を、私がもつ漫然たる像の反映、〈私の欲望、私の確信の影〉と化し、世界そのものをあるがままあらしめることを拒否する私の一方的な思い上がりであったのではなかろうかということなのである。そうだとするならば、それが私という此岸とそれ自体として充足する世界とをあいまいに溶解してしまう、そのあいまいなる領域にこそ〈詩〉が生まれ、情緒化による私の世界の私物化が生まれてくるに違いないのだ。すでに二年近く前、一冊の写真集を出したまま、何もすることができず、またやろうともしなかったことの真因は、実は他ならぬこの〈詩〉〈イメージ〉への疑いが私の中で、初めはおぼろげではあったが次第に明確になっていったという事実とけっして無関係ではなかったことに私はうすうす気づいている。・・・(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』、ちくま学芸文庫、12-13頁)。
だがいま、まさしく世界は作家の、人間の像、観念を裏切り、それを超越したものとして立ち現れてきているのだ。作家が、芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊しはじめたのだ。そしてそこから必然的に作品を芸術家がもつイメージの表出と考える芸術観もまた突き崩されざるを得ないのは当然のことである。そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。(同上書、17-18頁)。
みずからの写真をふり返ってみて、なぜ私はほとんど「夜」あるいは「薄暮」「薄明」をしか撮らなかったのか。またなぜカラー写真ではなく、モノクロームの写真しか撮らなかったのか。さらになぜ粒子の荒れ、あるいは意図的なブレなどを私は好んで用いてきたのか? それは単に技術的な問題にすぎなかったのか。むろんそれもあったろう。だがそれを超えて、さらに深くそれは私と世界とのかかわりそのものに由来していたと言えるのではないか。結論を先に言ってしまえば、それは対象と私の間をあいまいにし、私のイメージに従って世界を型どろうとする、私による世界の所有を強引に敢行しようとしていたように思えるのだ。このあいまいさから〈詩〉が生まれ、情緒が生まれてきたのである。(同上書、23頁)
6 中平の『植物図鑑』というシリーズは、このような自己批評を通じて生み出されていった。だからこそ、『植物図鑑』のどの写真でもよい。――わたしたちをひきつけてやまない、圧倒的なモノとしての草木の存在感。モノとしてもつあらゆる細部の輪郭が群生し、それらだけですべてが自立しているまさにその立ち姿を通じて、「ヒトではなくモノが語りはじめる」というほかない瞬間が訪れるのだ。
さて、わたしがこうして、わざわざこんなに長く写真家のエッセイを引用してみたのは、わたし自身、杉本奈月の「言葉の物性を表在化させる試み」と題されたこのシリーズが、あたかも「言葉そのもの」を写真で撮影し、それらを観客の前に並べて見せようとしているかのような手つきをうっすらと感じているからである。その場合、どういうアプローチを採用するにせよ、発語させる言葉の「輪郭」をどのように引き出し、どのように対峙するかを明確化していかなければならない。同じ書物のなかで、中平は、ル・クレジオ『物質的恍惚』の一節(=「昼の不安はたぶん夜のそれよりもなおいっそう恐怖を与えるものである」)を引用しながら、次のように語っている。
白昼、事物(もの)はあるがままの事物として存在する。赤裸々に、その線、形、質量、だがわれわれの視線はその外辺をなぞることしかできはしない。それはまぎれもなくわれわれに苦痛を与える。なぜなら、われわれはそれに名辞を与え、そのことによってそれを私有しようと願う。だが事物はそれを斥け、斥けることによって事物であるからだ。眼の侵略、それに対して事物は防禦のかまえを備え、今度は、われわれに対して事物が侵略を開始するのだ。それを認めること、形容詞(それは要するに意味だ)のない事物の存在を、ただ未来永劫、事物は事物のロジックによってのみ在ることを認めること。・・・(同上書、25-26頁)
事物が見よう(=侵略しよう)とする人を斥け、斥けることによって事物となる。――そのような事物として、舞台上の発語が浮かび上がってきたら、どんなに興奮するだろうか。そうした夢を、おそらく多くの舞台作家が抱いているに違いない。だが、そのような事物は、いうまでもなく、なんとなく映ってなどくれないし、「斥けられる私」がなんらかの形で作品に移りこんでこそ、はじめてそうした事物が屹立することになる。
わたしは、杉本が、他者の語りを聞く「私」を、舞台作品という「写真」に、どのように映りこませようとしているのかが、最大の課題であると感じる。目下のところ、杉本はその方法論に手を付けず、「聞く」という行為が、ア・プリオリに成立しうるものであるかのように、ひらすら目の前の「対象」の存在様式だけに目を凝らそうとする。だが、目を凝らそうとするその姿勢(ポジション)こそが、すでに作品の一部としてあらわになってしまっていることに、作者はまだ充分に気づいていない。ある意味で、写真にとってカメラ・ポジションがほとんどすべてを決めてしまうのと同じように、舞台においても、演出家のカメラ・ポジションがほとんどすべてを決めてしまうのだ。演出家が「語りに寄り添い」「耳を澄ませる」のはよい。だが、どのように寄り添い、何を夢見ながら耳を澄ませるのかによって、作品自体の訴求力は、全く異なったボルテージになっていく。
あいまいなコラージュを突破するような次回作を期待したい。
森山直人|Naoto Moriyama(演劇批評家 / 京都造形芸術大学教員)1968年生まれ。京都造形芸術大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員。主な著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「〈オープンラボラトリー〉構想へ」(『舞台芸術』20号)他。
劇 評 [古後奈緒子]他者の庭を散歩する
『退嬰色の桜』は、この視線の散歩にもってこいの建造物で、新しい言語を見つけようとする若い演劇人からの誘いである。
入ってまず目に入ったのは差し色になっている椅子とドライフラワー。アクティングエリアの椅子というのは、それだけで劇場空間に埋め込まれた関係を意識させるが、ここでは客席と同じモダンデザインのスツールで対面構造が作られている。抑えた色の展開が美しいドライフラワーは、制作の時間を持ち込むように、床の新聞紙の上に束を解いて広げられている。そして中央と下手に漆黒のスタンドマイク。高さと向きが違えてあり、発話の場所と宛て先に差違が生じるように仕込まれている。このように知覚の焦点やコミュニケーションラインがさりげなく設計された空間に、言葉を繰り出す装置が二種登場する。生身の人間とプロジェクターである。
本作は「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する」試みの5回目にあたるという。現代口語で書かれる戯曲テクストの中に、二種を区別するのは難しいが、今回プロジェクターで投影された言葉は過去形で物語化され、開放性の高い3人の俳優のパフォーマンスと対照をなしている。最初に提示された物語が抑圧を凝縮した寓話と読めるので、パフォーマーたちにはそうではないあらゆる語りが期待されるし、許される。といいつつ制作の大枠により、彼女たちには一つの期待がのしかかっている。『退嬰色の桜』は、女性の作家が同性のパフォーマーに声をかけて集めた、演劇制作の歴史と現状に照らして異色の試みだからだ。期待は男性中心社会の性役割を反映する「女優」に対するものではない。それでも彼女たちには、現代のこの地域で活動する「女性演劇人」に共通する何かが期待される。願わくば、これまで語られ得なかった言葉。そしてこの空間、すなわち心の解放区であろうとする劇場に集った、できるだけ多くの身体を解き放ち、今までとは違うやり方でつなぐ何かを。
語られた内容だけ切り取るなら、この期待は一見、肩すかしと見えるかも知れない。というのもパフォーマーたちは、この空間のいろんな場所にそれぞれのアクトを、個別に遂行していったからだ。その途上である者は「女子だけで受けた性教育」について語り、またある者は「生理」について語ったが、サイトの座談会のようにトピックをそろえた場面はない。女で集わず、演劇人として群れずというか、それらでありながら終始、個なのだ。
そんな彼女たちの語りは、男性との関係における役で定められない。これはもう一つの一貫した共通点だ。世に溢れるドラマの多くで、女性は恋人、妻、母、妹といった役割に言動とキャラを規定されている。ファンタジーが入ると結婚か婚外交渉の対象に二分され、後者はエンタメ領域で荒唐無稽なヴァリアントをあまた生みだし、これを笑い飛ばすかうっとりするかで思春期の女子は分断される。こうした性役割を拠り所にせず公の場で何かを言う、あるいはメディアに姿を現す機会は女性から奪われてきた。その間、フェミニストたちは「抑圧された性」として語る主体を構築し、表現を洗練させてきたけれど、先の状況はアップデートされて継続中。この状況に加えて、そのいずれにもすっきり割り切れない主体化以前の声、アイデンティティの揺らぎを、この騒々しい社会の中で、私たちはいかに安全に出してゆけるのかというもやもやがある。この、常に新しいやり方が必要な問いの探求を、許されかつ期待されてきたのが芸術だ。新しい言語の探求には、自分の無理解を正当化する批判から、自分の声を代弁してくれないといった恨み、はたまた「どこまで意識してるのかしら?」といった老婆心(これは私)まで、たくさんの期待が裏返って寄せられる。したたかにゆけ。
視線を客席に向ける/向けない。(どちらの)マイクを使う/使わない。そもそも語りをどこに差し向ける。どこに立って何をしようにも自問と逡巡を伴ったであろう設定と空間の中で、寄る辺ないはずの三人のパフォーマーは、小一時間、この空間に自分の言葉を響かせるいろんな可能性を試し、私たちの視線をその軌跡の中に編み込んでいった。鉄板芸に走るでもなく(いや走った?)、お互いを静かに観察し合い、絡んで内輪の結界を張ることなく、客席からいかに離れようともいつも観客に体半分開いている。そうした彼女たちの佇まいに連れられて、「この座組みでなければ出てこなかった」語りの数々を観客は手渡された。その途上で、目の前の個人に帰せられるものではない像を目にした観客も、きっといたことと思う。
古後奈緒子|Naoko Kogo(大阪大学文学研究科所属/dance+主催)1972年大阪生まれ大分育ち。大阪外国語大学ドイツ語学科卒。大阪大学文学研究科文化表現論修了。同大学院文化動態論専攻アート・メディア論コース所属。「C/P」「log-osaka」などの経験からdance+を立ち上げ、「京都国際ダンスワークショッフェスティバル」「京都国際舞台芸術祭」等、上演芸術のフェスティバルに記録、批評、翻訳、アドバイザー等で関わる。大阪アーツカウンシル委員。
この話を、N₂『磔柱の梨子』東京公演を観ている最中に思い出すのも、決して不自然なことではない。新宿眼科画廊やアトリエ春風舎、北千住BUoYといった、東京では決して珍しくない地下の劇場ではなく、カフェムリウイ屋上劇場という、公演中に日の入りが見えてもおかしくない(日の出は少なくとも本番中に観ることは時間帯的に難しいだろう)、街を一望出来る劇場が選ばれたのは、劇中にたびたび東西南北が登場するこの作品の街の捉え方に、大きな影響を与えている。架空の街を想像するのではなく、実在する街の、実在する人の言葉を聞く態勢に、観客は入る。そのために俳優は開演前、劇場の外の、窓から小さい姿がぼんやりとみえる場所で、ゆらゆらと動いて、街や私たちを、ぼんやりと眺めているようにも思われた。
しかし、私が疑問を拭えなかったのは、いわゆる強固な文体を持った、恐らくは杉本奈月が執筆したであろうセリフと、恐らくは俳優やそれに近しいひとにインタビューしたものから抽出されたテキストが、混交しているというよりも水と油のように混じり合わない瞬間を観てしまうこの作品の構築において、優先度として作者の美学のほうが勝っているように感じられ、事情をよく知らない観客にとっては、トーンが急に変わって示される生活を想起させるようなテキストの脆弱さが露わになることは、時としてカタルシスの仇となっていたのではないかという点である。
一見別の話に聞こえるかもしれないが、「短歌に使われがちなダサい言葉」というものがこの世には存在する(早稲田大学のサークルである早稲田短歌会の出身であるが故に短歌については一定の知識を有するのだが、筆者がなぜ早稲田短歌会に入会したのかについての詳しい経緯はややこしいので割愛する)。様々な側面のある問題だが、ここで指摘しておきたいのはあくまでも「なんとなくどのような文脈で出てきても美しい感じのする言葉を使いまくるのはダサいのではないか」という側面である。例えば最近の若手の演劇を観ていると(指摘するまでもなく私も正真正銘の若手の一人だが)、「とにかく海(あるいは砂浜)を扱いがち」である。反論は受け付けない。私はここ数年、いや、少なくとも半年に一回は、必ずと言っていいほど海(あるいは砂浜)を扱う芝居を目撃している。海に行く→綺麗な情景が広がっている、これは単純な連想だが、実際の海では「水がそこそこ濁っている」「ビーチサンダルの中に石が入ってきて痛いが取り除くタイミングを見失う」「海の家のおばさんの対応が非常に雑」などの事象が生じるため(単なる筆者の実話であるので、本当は100%素晴らしい海の体験がどこかにあるのかもしれない)、そのような一切が作劇の都合で捨象されている気がしてならなかった。それは例えば「石」の扱い方についても、そのような手付きのものであるように思えてならなかった。私はそのような醜いと思われる事象からこそ目を背けてはならないという立場であるために、AAF戯曲賞でボロ負けした立場であることをいったん棚に上げて(そう、あの歴史的な松原俊太郎圧勝回である)、アフタートークでそのことに触れた。時間の都合で明確な討論に至るほどその話題が発展することはなかったが、次回の作品による応答を待ちたい。少なくとも、実話のインタビューから起こしたであろうテキストについては、そのようなところで躓くことはなかったからだ。
綾門優季|Yuki Ayato(青年団リンク キュイ)1991年生まれ、富山県出身。劇作家・演出家・青年団リンク キュイ主宰。青年団演出部。2011年、キュイを旗揚げ。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。2015年、『不眠普及』で第3回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。「坂あがり相談室plus」2018年度版!対象者として選出。急な坂スタジオWEBにて「余計なお世話です」連載中。
劇 評 [萩野雄介]告発としての舞台
まずは舞台の構成から分析したい。これまでのN₂の舞台と比べると舞台装置はとてもシンプルだ。プロジェクターを用いたりもしているが、「衣服やタオルが掛かった脚立」「封筒や手紙、原稿用紙」が主なアイテムである。まず、衣服やタオルは明らかに私生活を匂わせるためのギミックだろう。特筆すべきは紙片の扱い方の変化だ。これまでにもN₂では紙片は床にばらまかれていた。しかし、過去作において紙片は舞台上で散乱しているアイテムであり、「紙片=詩篇=散文=独白」のメタファーとして扱われてきた。『居坐りのひ』などの過去作はあくまでも演出・脚本の杉本奈月の「独白」だった。人間存在の危うさというテーマについての自問自答に近いものであったからこそ、語るべき対象者を持たない。それに比べ、今回の「紙片」はあくまでも整えられた手紙や原稿用紙といったかたちで体裁を整えている。つまり、言葉を提出する相手が明確に存在するのである。では、いったい「何」を伝えているのだろうか。これはもう、明白であろう。性加害の告発だ。
本作の背景にあるものがフェミニズムであることは一目瞭然だ。はっきり言って、表現がストレートすぎると感じるほどに。台詞を追うだけでも、好きなファッションを「おっぱいが見えるから」という性的な観点からたしなめられたというエピソードは「性的な視線にさらされてきた」という告発であるし、「お花を摘みに行ってきます」というセリフは「女性はそれを自らは秘さなければならない」という、スタンダードなフェミニズムの主張をしていることがわかる。極めつけは「アイデンティティの着脱」という台詞で、自分の意志ではジェンダーをコントロールすることはできないということのメッセージとなっている。
ここまでに拾い上げたセリフだけなら、ジェンダー論だけで済む話だが、本作品はもっと直接的な性加害を取り上げている。「手は汚れていますか?」「足は洗いましたか?」という台詞は明らかに加害者の罪悪感に訴えかけているものであるし、「そこに(舞台の)幕があるんですよ。私はそれをブチ破ろうとしたんですけど」という台詞は処女喪失への言及だ。本作の最後を締めくくる「プロジェクターに映し出される言葉」を待つまでもなく、男性の性加害を告発したものであることがわかるのだ。しかもそれが記録映像や記録音声、小さな頃の話といったギミックと組み合わさることで「女性は幼少期から性被害にあっている」ことの表現にもなっている。
これは例えば、恋人同士の関係でも男性が押し倒してセックスしたことを「そういう雰囲気だったから」と言い、女性がそれを「暴力ではないか」と訴えるという構図を取り上げているのであって、一般性を持つ主張だと思う。だからこそ、ミソジニストだけでなく、広い意味での男性全般である「女性に罪悪感を抱えている男性」にも訴えかける力があるのだ。それはフェミニズムの作法として正しい。しかし、最初に指摘したように「演者と知己がある人(または、そこまで想像ができる人)」から出てくる反発に対しては議論の余地があると思う。役者に性加害の告発をさせるということは、それもまた暴力的ではないかという観点があるからだ。特に本作においては役者は自分の名前を「役柄」として担っている。創作とドキュメンタリーの間のような存在として演技をしているのだから。
とはいえ、本作品で一番面白かった点も、「創作とドキュメンタリーの間のような存在」としての役者であったことも指摘しておかなければならない。私は役者とは知己がなかったので「作品中の名前が本名なのかどうか」もわからなかったし、「最近結婚したんですけど」といった話もどこまで本当なのか、どこから嘘なのかが全くわからなかった。N₂の作品に出てくる役者はずっと「実存の危うさ」を演じる「幽霊」だったため、これほどまでに「生の人間」が目の前に現れたことはなかった。しかも、異様なまでの生々しさはありつつも、その「役柄」がこの世に本当に存在しているのかどうかがわからない。
つまり、こういうことだ。本作において演じられた「性被害にあった女性」は世の中に偏在する。作品の冒頭、役者が客席の中で一緒に座っていたことも「このような女性は普通にあなたの隣にいる」というメッセージなのだ。
萩野雄介|Yusuke Hagino 近畿大学文芸学部日本文学科創作・評論コースを卒業。広告代理店にて制作を生業とする傍ら、作詞・作曲・バンド活動・批評の執筆などを行っている。あらゆる精神性は構造に宿ると考え、批評においては作品構造の分析を中心に論を展開する。
レポート [第18回AAF戯曲賞]審査会レポート
https://www-stage.aac.pref.aichi.jp/event/archive/detail2018/18_aaf_bosyu/pdf/aaf18_report.pdf
https://www.kac.or.jp/wp-content/uploads/180314-6_KACNEWS1804.pdf
ピンク地底人3号|Pinkchiteijin.No3(ももちの世界)ピンク地底人三兄妹の長男。ももちの世界在住。KISS FM KOBE STORY FOR TWO 番組ディレクター。代表作に2010年「その指で」(第11回AAF戯曲賞最終候補)、2017年「黒いらくだ」(第23回劇作家協会新人戯曲賞最終候補)、2018年「鎖骨に天使が眠っている」(第24回劇作家協会新人戯曲賞最終候補)、2018年「わたしのヒーロー」(第6回せんだい短編戯曲賞大賞 単独受賞)。
杉本奈月が夢見ているのは、「演劇という詩」であるといってよいと思われる。演劇というジャンルが古代以来の「韻文」を捨て、市民社会の日常を描く「散文」に活路を見出すようになった近代劇の開始以来、散文的な演劇に対する反発として、演劇と〈詩〉を重ね合わせようとする試みは、象徴主義以来、幾度となく試みられてきた。たとえばメーテルランクやストリンドベリの一部の作品のような成功もあったが、多くの失敗を見てきたアプローチでもある。前作『火入れの群』が、必ずしも成功には至らなかったのは、杉本が執筆した詩的言語が、舞台というあからさまな形而下的世界にあって、その物質的な根拠をうまく見いだせずにいたことが大きい。その点でいえば、本作は、「舞台」が「舞台」として成立する最低限度の存立基盤がはっきりとした輪郭を見せていたという点で、一歩前進の感が確かにあった。
いま、「はっきりとした輪郭」という言葉を使った。だが、すぐに付け加えるなら、その鮮明さとは、昔ながらの紙焼き写真にたとえれば、〈ポジの鮮明さ〉ではなく、〈ネガの鮮明さ〉である。本作の「劇言語」の物質的な拠り所とは、何よりも、約70分の相当部分を占める「沈黙」と「静寂」であった(おそらくここでの「沈黙」と「静寂」は、この作品が上演される劇場空間の質によって、ある程度左右されるデリケートなものであったことは予想される)。ところで、現代演劇における「沈黙」や「静寂」といえば、ベケットやカントル、太田省吾など、多くの巨匠たちの名前が思い浮かぶが、この作品における「沈黙」と「静寂」は、先達たちのどの沈黙にもあまり似ていない。いわゆる「劇的緊張感」とは真逆の、あえていえば、きわめて魅力的な「弛緩」がそこにあったというべきである。
本作に登場するのは、たった二人の女優(森谷聖、益田萌)である。私が見ることのできた上演会場は、もともと瀟洒な元私立小学校の講堂の趣きが残る贅沢な空間なのだが、本作では放置された椅子や荷物のようなものが無造作に積みあげられ、――とはいえ、「廃墟」という言葉ではとてもいいあらわすことができないほどなんの特色もない〈ガランドウ〉のようだった。観客席に身をおいても、とてもこれから何かが立ち上がるとは思えない。唯一、A4ほどの大きさの白い紙片が、演技エリアの奥に向かって、一応ランウェイのような形状に並べられているのだが、上演会場の物理的な広さのせいで、むしろ「なにもなさ」のほうがずっと際立っている。もちろんそうした〈表現度ゼロ〉へと傾斜する空間性は、照明や美術の工夫を通じた演出であり、「いかに表現せずにいるか」という逆説的な表現意欲を選択した演出家の意志であることは明らかである。その上、まもなく、そこに登場する二人の女優も、同様の雰囲気を濃厚にたたえているのだ。ふたりの身体は、演技エリアではなく、まるで、本番にはまだだいぶ間のある楽屋入りの直後のような、ふわりとした弛緩のほかには、なにひとつ見いだせない。
開演以後、女優たちは、杉本や彼女たち自身が執筆した劇テキストを、できるだけ抑揚を押さえた形で発語していく。その大半は、彼女たち自身の出自や環境、好みをめぐる個人的なモノローグであったり、二人がお互いにかわす、ほんのささいなやり取りのようなものであったりするにすぎない。ただ、観客としてはっきり感じられるのは、そのような「ささいな日常性」を伝えようとしている、というよりも、「ささいな日常性」を通じて、やや誤解を招く表現になるが、何も観客に伝えないことを伝える、といった身振りが徹底されていたことである。20代前半の若い、ある意味ではどこにでもいそうな女性のたたずまいが崩れることは決してなく、しかもそれ以上の何かが表現されようとしているのでもない。そうしたゼロへと向かう試みは、決して簡単なことではなく、つねに、何かが表現されてしまいそうになる瞬間を、懸命に〈引き算〉しつづけていく意志を通じて、辛うじて生み出される空気のようなものでしかないだろう。その向かう先がどこにいくかは不明であることもあえて引き受けつつ、いま、この瞬間に、このさりげない引き算に徹するほかはない、という作品全体の静かな決意だけが、じんわりと客席に伝わってくる。
「どうして一人で眠れるんですか」「ひとりじゃないよ」――ありきたりのリュックやかばんから着替えを取り出し、当たり前のようにそこで生活する二人の女優のあいだで、たとえばそのようにかわされる対話は、お互いの感情に直接ヒットしたりはせず、それぞれがそれぞれのタイミングで勝手に盛り上がり、沈静化していく。そのような、一種の自己完結性は、しかし、ありきたりの自己中心性を自堕落に肯定することで生まれる類のものではなく、一種の芸術的な実験として明確に目標とされていることが伝わるかぎりにおいて、むしろ透明で清潔な印象を受ける。ただ、そのような二人が、ガランドウのような空間で、徹底して孤独に立ち止まっている姿を見ていると、ふと、二人のモノローグのなかで何度か言及される「地震」という言葉と緩やかに共振するところも事実だ。というのも、たしかに、このガランドウは、一種の巨大な避難所の風景にも見えるからである。そして、この二人は、自分たちではどうにもならない強制力によって、やむをえず避難してした誰か、にも見える。その上、もうたった二人しかいない避難所は、そうしたカタストロフから時間が経ち、もはや忘れられかけている場所における孤独と空虚のようにも見えるのである。私たちが、この作品から、どこか他人事に思えない情感を感じ取るのは、「現在」という時間が、いつのまにかこの場に流れ込んでいたせいかもしれない。
なるほど、独特の沈黙と静寂を通して、演出家はそのような空気を呼びこむ器をつくりだすことに成功していたかもしれない。だが、この作品での演出家の選択は、そのような空気を描き出すことではなく、むしろ「寄り添うこと」にあったのではないか。もう一度いえば、二人の女優の独特のたたずまいは、ある種の選択された自己完結性とでもいうべき、ある種の静かな決意をたたえている。にもかかわらず、じっと見ていると、二人のたたずまいの傍らに、いまここには見えない不在の意志のようなものが感じられてくる。あえてこう言ってしまおう。その不在の存在は、演出家としての杉本その人の気配にほかならなかったのではないか。二人のどうしようもない空虚、それをとりまく絶望的なまでにありきたりの空虚に対して、どこまでも寄り添おうと決意することだけが、この作品を作品たらしめている最終的な保証になっている。私たちは、このような存在が地上のどこかにあることを忘れてはいけない。そのことを、静かに伝えようとする意志こそが、この作品だったのではないか。その意志を、今後も作品の中心にもしも据えていこうとするのなら、それをどんな言葉に言い表すのがよいのか、是が非でも探し出さなければならないのだし、この作品の「先」にある課題とは、およそそのようなものでしかありえない。だが、少なくともこの作品において、「先」に向かうための手がかりを、このユニットは手にしたことだけは間違いがない。この感触を、少しずつ解凍していくことに、だまされたと思ってひとつの希望を見出してみたいと感じた観客は、私だけではなかったと思う。
森山直人|Naoto Moriyama(演劇批評家 / 京都造形芸術大学教員)1968年生まれ。京都造形芸術大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員。主な著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「〈オープンラボラトリー〉構想へ」(『舞台芸術』20号)他。
上演時間は約70分。決して長尺の作品ではないが、ここには、劇作家・演出家の杉本奈月のさまざまなタイプの実験性が、やや強引なほどに詰め込まれていたといってもよい。たとえば、上演前から観客に配布されたパンフレットには、すでに杉本がどのような劇言語の実験を行おうとしているのか、その一端が開示されている。
だが、こうした「実験性」は、この上演作品の一部にすぎない。たとえば、開演前に床に並べられ、開演するやいなや3人の俳優たちによって四方八方に散乱させられることになる無数のA4サイズの紙片の裏には、どうやらさまざまな戯曲の断片が書かれていて、俳優たちがランダムに(正確には、そう見えるように)それらを音読していく場面もある。あるいはまた、出演者が、まさにいま上演中の劇場(=アトリエ劇研)の関係者だけに配られる「使用上の注意」らしきテキストや、出演中の俳優が友人をこの上演に誘うために書かれた「手紙」などが読み上げられることもある。3人の俳優たちが、ガランとしたアクティングエリアでゲームをはじめ、負けた人が即追放になる、というフィクショナルな「ルール」が実践されたりする場面もある。70分という全体の時間を考えれば、むしろあわただしくさえ思えるほど、質感の異なる場面が次々に展開されていくのだ。
こうした多種多様な「演劇的実験」が行われること自体は、これから本格的にキャリアを積み上げていこうとしている創り手の「野心」のようなものが明確に感じられ、むしろ好感がもてる。もちろんすべてが成功しているとは言えないし、全体として、一貫したヴィジョンが浮かび上がってきているわけではないのだが、そういうことは、いずれ作品を重ねていくうちに、もっとはっきりしたものとして見えてくるはずだからである。
ただ、全体として「どこか既視感のある実験劇」に見えてしまう点に関しては、シビアに考えてみる必要がある(おそらくこれは私だけの印象ではないはずだ)。その点を、以下、できるかぎり論じてみたい。
この作品に関して、誰でも注目せざるをえないのは、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」という、耳慣れないサブタイトルであろう。「物性」も「表在化」も、自然科学でよく使用される用語であろうが、ここでは一応前者を「(言語の)物質性」、後者を「即物的な表層化」と解釈しておくことにする。
そう考えてみたとき、『火入れの群』が、言語の物質性に執拗なこだわりを持ち、なおかつ「物語」の深さを極力排除し、劇言語が発せられる「いま・ここ」という時空に、繰り返し、メタシアター的な言及を重ねていたことは、一応感じられたといってよい(先に挙げた事例以外にも、たとえば明らかに、いままさに上演が行われている現実の時刻を読み上げるような場面もあった)。
だが、残念ながら、現時点における杉本は、演出家として、「上演」という場の空気を有効に撹拌する手段を、まだあまり多く持ち合わせていない。たとえば、本上演を通じて、ほとんどの俳優は「平板なしゃべり方」をする。しかしながら、誰もが知るように、「平板なしゃべり方」は、それだけでは「上演空間」という即物的な「表層」を顕在化させてくれるわけではない。「観客」とは、どんなものにもついつい「意味」を見出そうとしてしまう。「平板なしゃべり方」は、「意味がない」という単一の「意味」を生じさせ、それに多くの観客は「納得」し「安住」してしまうのだ。「既視感のある実験劇」という漠然とした印象は、たとえばそういうところから生まれる。場面と場面のつなぎ方のせわしなさも、むしろそういう自信のなさの現れに見えてしまう。
したがって、杉本が、いま、ここで行うべきなのは、自らのポテンシャルである「実験性」を安易にそれらしく作品としてまとめてしまうのではなく、凶暴なまでに、じっくりとひとつひとつの要素に立ち止まり、向き合い、なめるようにそれらを観察し、それらと対話することなのである。たとえば、そうするなかで、『火入れの群』のなかに3つの異なる要素を感じ取ったなら3つの作品を、4つの要素を感じ取ったなら4つの作品を生み出すことを躊躇なく構想すべきだろう。
杉本の作品は、「詩的」と評されることがあるようだ。私も大筋では同意するが、やや漠然と「詩的」という評言が使われているのではないか、とも危惧する。今回、私はたまたま本公演のアフタートークのゲストとして呼ばれたので、事前に上演台本のコピーを受け取ることができたが、上演台本を読むと、上演とは異なる角度で杉本のポテンシャルが見えてくるような気がした。たとえば、この作品の冒頭には、実は次のような「ト書き」(?)が記されている。
わたしたちの小さな火種は大きな波に浚われた――と、まだ言い続けなければならないのだろうか。水平でなくなった海へ温存されるのは、メスの挿入を伴わない非侵襲的な公約であり、独り善がりの不正である。だから、彼の青さは波ではない。人脈は崩れ、滞った血流が黒点をプロットする。あなたが可視とするものを、わたしが見ることはなく、借景は明け透けなアンバーの光源に微睡む。
ここに見られる言葉の連なりは、なかなか魅力的である。「実は」といま書いたのは、この部分は実際には上演で発語されることは、たしか遂になかったからである。1970年代から80年代に流行った「テマティズム」や「表層批評」を蒸し返すわけではないが、ここには、「火」「水」「波」「海」「青」「温」「血」のような言葉の断片が、意味内容という「深さ」に行きつくのではなく、「表面」から「表面」へ横滑りしながら意味の多様体を形成していこうとするダイナミズムが胎動している。むろん、この部分を「平板」に音読したくらいでは、到底その「物性」を剥き出しにすることなどできないだろう。だが、もしも「詩」を目指すなら、自身の「書き言葉」が指し示しているこのような物質性・即物性を、上演の「詩」として実現する具体的な方法を真剣に模索するべきだろう。たとえば、詩人・吉増剛造の驚異的なパフォーマンスのように、「物質的な野心」とは、「平板なしゃべり方」「実験劇っぽさ」のはるか彼方まで地平を広げていく無限の可能性を秘めているからである。
森山直人|Naoto Moriyama(演劇批評家 / 京都造形芸術大学教員)1968年生まれ。京都造形芸術大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員。主な著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「〈オープンラボラトリー〉構想へ」(『舞台芸術』20号)他。
ともあれ、舞台に目を向けてみる。劇空間はいたってシンプルである。舞台床面には整然と数字の書かれた紙が並べられ、上手に黒板、いくつかのパイプ椅子のある他は何もなく、それゆえ、ブラックボックスとしての空間があらわとなる。
これまでのN₂の作品で特に課題とされたのが、劇作家である杉本奈月の言葉をどう上演するかだ。前作の『blue/amber』¹は、上演場所自体に言及し、書き手も出演することで、テキストと俳優の乖離を埋めようとした。しかしながら、その試みは舞台に携わる者の世界にとどまることで、かえって観客との間に距離を生じさせたように私には感じられた。
しかし、今回の『火入れの群』は、そのようには感じなかった。なによりもスピード感だ。冒頭、俳優たちは舞台を何度も往復しながら台詞を言う。一語一語の台詞は短く、自ずとテンポは上がっていく。「神様はお客様?」「減らず口の舌」「腸詰めの屁理屈」といった挑発的な言葉が並び、彼らの往復運動は「まだ時間はある」「魚の泳ぐ速度を知っているか」「時速115キロメートル」といった時間と速さを意味する言葉と結びつく。杉本のテキストは、しばしば思い出すことのできない過去への探索が試みられるが、この冒頭場面は、スピードが過去への不可逆性を強調していたようにも感じた。俳優たちの言葉の応酬は、やがて、上演そのものの意味(「何かのテロ?」「演劇的行為だ」「ここは今?」「今でないと嫌か?」)を問い直す言葉となる。
これまでの観劇した2作品(『水平と婉曲』『blue/amber』)においては、徹底して「劇場」という場所に宛てて創作した。人間座とウイングフィールドの両方で、それぞれ劇場の所在地を読み上げ、今ここで行われる上演という制度を確かめている。とりわけ、今作はアトリエ劇研が8月末に閉館となるため、そのアプローチがより強調されたと言える。やや冗長にも感じられる地下鉄松ヶ崎駅から劇研までの20分の道のり、観劇後に俳優自身が立ち寄るアトリエ劇研界隈の店への言及は、ここがやがて無くなる場所であるからこそ象徴的なものとなる。今この場所で行わなければ、彼らのテキストは、パフォーマティブなものにはなり得ない。劇研の公演使用時の注意事項を読み上げるという行為もまた、ブラックボックスという場所で行うことを再確認している。
「劇場」のあり方の問い直しは、言い換えれば、創り手と観客の望ましいコミュニケーションとは何かということだ。私たちはなぜこの場所に集まり、上演を行うのか。『火入れの群』では、いくつか前作より明瞭な応答があった。
一つは、そのあり方を俳優たちによる遊戯に求めていたことだ。「会議体」という形式を通して上演戯曲を選び、ストラックアウト風のゲームを通して、選ばれた戯曲を読む。退場する俳優もまた、加算式のゲームとあみだくじで選ばれている。アドリブ風の場面だが、プレイに勤しみながら演劇を行う態度は、劇場という場所の目的を素朴な方法で今一度思い起こさせるものだった。
もう一つは、テキストを声に出すという行為そのものが以前に比べてはっきりと行われていたことだ。この作品では、劇作家のテキストだけでなく、他の戯曲や法案の条文、観客への手紙や挟み込みのチラシ、観客アンケートなど、様々な形式のテキストが俳優によって読まれる。文字として書かれたテキストも音にすることで違いは明らかとなる。同音異義によるアクセントやロシア語の挿入、「カッコ、カッコとじ」といった本来読まれないものの肉声化は、言葉の実験としての空間を立ち上げていたといえる。それはこの上演が掲げる「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」を顕在化したものといえる。
しかしながら、気になった点がいくつかあった。杉本自身の冒頭および終局のテキストが明瞭だっただけに、それ以外の引用された言葉との対置が十分に機能していないようにも感じた。たびたび引用されるメーテルリンクの『群盲』のト書きや、共謀罪改正案、インフォームド・コンセントの説明書きなどは、いずれも劇場や観客のあり方を考えるうえで有効だが、全体としてみた時に、それぞれがはっきりと連関しない。
望むべくは、書き言葉を通じての過去の召喚である。杉本による抑制された文語体のテキストは、平易な話し言葉とは趣を異にする。その点で、今は古びてしまった、時に難解なテキストと邂逅する可能性をはらんでいる。書かれた言葉の向こう側へ、より観客をいざなうこともできるだろう。少しずつ、自己言及に留まっていた世界が外側に開いてきたと感じただけに、次回の公演に期待したい。
須川渡|Wataru Sugawa 1984生。演劇研究。専門は戦後日本におけるコミュニティ・シアター。目下、戦後岩手における農村演劇の調査などを行っている。現在、『京都芸術センター通信』に観劇レビューを執筆。大阪大学招へい研究員。
劇 評 [須川渡]「書き言葉」を上演する
http://www.kac.or.jp/wp-content/uploads/170515-4_KACNEWS1706.pdf
須川渡|Wataru Sugawa 1984生。演劇研究。専門は戦後日本におけるコミュニティ・シアター。目下、戦後岩手における農村演劇の調査などを行っている。現在、『京都芸術センター通信』に観劇レビューを執筆。大阪大学招へい研究員。
本作の元々のタイトルは『居坐りのひ』であるが、これまでに内容を変えつつ、続けられてきた『居坐りのひ』と⽐べても、この『草藁』は作者の内⾯的世界をかなり前景化している。付け替えられたタイトルが『草稿』ではなく『草藁』であるのは、それが未完成であるからではなく「⾃⽣」的な⾔葉を扱っているからであろう。どこからともなく湧き上がり、表出し、群⽣する⼀⼈語りの⾔葉である。
とはいえ、本作は内⾯を吐露することで作者そのものを世界として提出しようとしているわけではない。もし、本作の⽬的が作者の内⾯を⾔語化し、他者に伝えるためのものならば、役者にその⾔葉を語らせる必然性がないからだ。いわば、本作において役者は「作者の世界を構築するため」に存在しているのではない。「作者の世界を解体」するために存在している。「書かれたもの」の意味性の強さを⾳声へと変換することで弱めながら、複数の話者に語らせることで「主体」を解体していく。
そして、その主体は舞台にはいないことが肝となる。作者の内⾯の残骸である紙⽚が散乱しているだけの舞台は荒野のようでもあり、その空間そのものが幽霊のようである。
『草藁』という作品においては、⾔語を内部を映す鏡として⾔葉を扱ってはいない。むしろ⾔語を「外部」として設定することで相対化させるためのツールとなっている。「⾃⽣的な⾔葉」とは「⾃省的な⾔葉」のことである。⼀⼈語りが藁のごとく、いたるところに⽣えるようなものであることは、SNS 時代の現代においては⾃明なことだ。⼀連の『居坐りのひ』という作品はタイトルが⽰すように存在の不確かさを表現の核としていたが、そのリメイクの⼀つである『草藁』は、作者や私といった、主観上確実に感じられるものにすら、その不確かさを⾒出している。それゆえに舞台は⼀種の幽霊と化している。だからだろうか、舞台上で「窓」が常にその存在感を⽰しているのは。傍らの希望のようにすら感じられる。それは「奥」ではなく「外」に通じる象徴であり、もしやすると、他者のことであるのかもしれない。作者もおらず、他者もいない象徴だけの幽霊の世界で、窓だけが、ものを⾔わない誰かとして存在している。
萩野雄介|Yusuke Hagino 平成元年生まれ。近畿大学 / 文芸学部 / 日本文学科 / 創作・評論コース卒業。仕事は広告代理店の制作。音楽とチョコレートが好き。
https://spice.eplus.jp/articles/28978
舞台上の⼈物⼆⼈の「対話」はおおよそ繋がってるとは⾔えず、ただ「⼆⼈で同じ⽂を読んでいる」ような散⽂らしさも⾊濃く無い。最も近いのは「お互いに反応している」という表現の仕⽅だろう。もちろん、そのような対話の形式は現実のコミュニケーションをメタレベルに表現したものとしては標準的な⼿段だと思うが、この演劇がそのような現実を⽪⾁ったイロニーになり得ないのは、そのシリアスさ故であり、そのシリアスさを醸し出しているのは⾔葉のチョイス以上に「反復」という形式のためだろう。この反復という形式は冒頭の⾳楽にも現れていると⾔えるだろう。
さて、この「反復」には輪廻転⽣だとか⾃然の周期的営みのような壮⼤さはなく、むしろ密室性を感じさせるものになっている。堂々巡りのまま展開しない⾔葉の応酬は、役者の挙動のダイナミズムとは裏腹に、やはり静かである。そのやりとりの中に提⽰されている問題には解決が⽤意されてはいないし、⼈が通じる時というのは結局は「互いに妥協を許した」ということでしかないのであって、彼らは⾃分の⾔葉を投げ、相⼿の⾔葉を「受け⽌めてしまう」がために、対話になり得ない。
「なぜ―――なのですか?」という投げ掛け(つまり相互理解が存在しない)と断⾔形の⾔葉が埋め尽くす彼らのコミュニケーションには、共有されているものは無いはずなのだが、超常的に、前提のように共有されているものがある。それは「過去」である。まるで同⼈格のように彼らは「過去」を共有する。そして、居座りに過ぎない「今」が宙吊りのままなのである。「重⼼」を擁するのは過去のみであって、あまりに「今」は存在⾃体が危うげだ。舞台に散乱した「⾜跡の形に切り抜いた紙」と「切り抜かれた紙」はまさに、そのような「存在」の表裏的関係を表している。
宙吊り故に、この作品は観劇した者に何かしらの落としどころとしての感想を残さない。それこそ泣けるだとか、考えさせられる、というような感想を受け取ったというカタルシスは⽣まれないだろう。
この作品が残すのは宙吊りの不安である。それは⽣きるということの根元的不安、過去ではない今のみにしか⾃分が存在しえないということの不安、そして他⼈と引⼒⼲渉をしあっていないという不安。かくも、⽣きるとは不確かなことである。
萩野雄介|Yusuke Hagino 平成元年生まれ。近畿大学 / 文芸学部 / 日本文学科 / 創作・評論コース卒業。仕事は広告代理店の制作。音楽とチョコレートが好き。
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